【横塚裕志コラム】日本はなぜ世界の課題認識から遅れるのか

COP26で、日本は再び不名誉な「化石賞」を受賞した。この問題も、平均年収がOECDで最下位クラスなのも、競争力や幸福度など多くの世界ランキングで下位に低迷していることも、すべて同じところに原因があるように思われる。
その原因は、「世界が今抱えている課題認識を自分ごととは思わない」ということではないだろうか。「日本はそれなりに頑張っているのだから、世界標準から何と言われようと問題はないのだ」という幻想の中に皆で生きている感じだろうか。政治も官公庁もビジネスも教育界も同様だ。世界から多くの指摘をいただいているにもかかわらず、なぜ、日本はそれを自分ごととして改革することをしないのだろうか。

まずは、日本の中で「幻想」を覆すほどの課題認識が世論として盛り上がってこないという特徴があるように思える。例えば、世論を作り上げていく各界の動きについて以下のような傾向を感じている。

  • メディア:日本の真の課題を書くと売れない
  • 官僚:真の課題を言うと、自分達の政策が問題だということになってしまう
  • 政治家:真の課題を言うと票にならない

3つの分野とも日本をリードする立場にあるにもかかわらず、真実を正しく追求することよりも、短期的な利得を考えて行動しているように感じられる。とても残念でならない。真実をもっと公にして、国民の中での対話が行われていくような社会をつくれないものだろうか。3分野ともに古い体質をそのまま引きずっているように見える。「論語と算盤」という言葉があるが、論語が忘れ去られているようだ。

ビジネス分野でも同様な構造があるように思える。一人当たりGDPや平均年収などの生産性指標で日本の劣化が著しいことは周知の事実である。また、ROEの低さも長年言われてきている。しかし、ビジネス界として改革の機運があるとは言えない状況である。なぜだろうか。以下のような事情を推察することができる。

  1. 自社の中で、世界的な課題を自分ごととして話すことは難しい
  • 経営者や上司を批判することになり、出世を考えると話題にできない
  • 同業者との比較はするが、表面的な課題に終始し、本質的な課題は言えない
  1. 「課題」と理解する能力がない
  • 本物を知らないので、課題と認識することができない
  • なりたい姿がないので、課題を認識できない
  • 現状の偏差値教育では「課題」を考える能力が育たない
  • 10年後の自分の業界を想像する力がない
  1. リーダーが日本品質の成功体験から抜け出せない
  • 「そのうちなんとかなる症候群」
  • 「自社の社員は優秀だから負けるわけがない症候群」

このような日本の状態を変えなくてもいいのだろうか。Z世代にこのままの日本を引き継いでいいのだろうか。そこを変えていかないと、DXもESG経営も全部中途半端で形式的なブームで終わってしまうような気がしてならない。

日本が停滞している本質的な課題はどこにあるのだろうか。すべてに共通する日本特有の課題があるのではないだろうか。
本質的な課題を真摯に深掘りしていく対話がどこにもない。平均年収の議論でも、賃上げ企業への税制優遇という短絡的な議論が起きているが、本質的には、生産性を1.5倍に引き上げるための課題を議論すべきなのではないだろうか。少し複雑で難しい議論になると思考停止してしまう日本でいいのだろうか。

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