【横塚裕志コラム】責任とは「結果を謝ること」か「未来を決めること」か

デンマーク企業では、課長がその課が実現すべき「成果」を自分で定義し、課員はその成果実現の為に個々に定義された業務を自律して行う。課長と課員それぞれの責任範囲が明確に線引きされ、重複がなく、その結果、生産性が日本に比較して格段に高い、ということを前回は書いた。そのなかで、「責任」という言葉の意味が、日本とは根本的に異なると感じたので、今回はそれを書こうと思う。

日本では、責任とは何か。多くの場合、それは「問題が起きたときに、誰が説明するか」「誰が謝るか」という文脈で語られる。
つまり、責任とは「最後に引き受けさせられるもの」であり、「できれば背負いたくないもの」になりやすい。
一方で、デンマークの企業においては、責任はまったく違う意味を持っている。
それは、「自分が決めてよい範囲」であり、「自分が動かしてよい領域」を意味している。

1.責任とは「罰」ではなく「可動域」である

例えば、日本の組織でよく見られるのはこういう構造だ。判断はすべて上司に確認し、指示されたことを正確に実行し、問題が起きたら上司が責任を取る。この構造では、責任は上に集中する。その結果、部下は「自分で決めてはいけない」と無意識に学習する。
大企業とスタートアップとの交流会を実施しても、大企業の人は必ず「持ち帰って検討します」と言って決断しない。自分では何も決められないのだ。課長でも部長でも、もしかしたら社長でも決められないかもしれない。通帳の残高と格闘しているスタートアップには失礼な話だ。

一方で、デンマークの組織ではこうなる。成果が定義され、その範囲は任され、その中での判断は自分で行う。ここでの責任とは、「この範囲はあなたが決めてよい」という意味になる。つまり、責任とは「ここまでは自分で動かしてよい」という可動域の定義なのだ。

2.なぜ「責任を持つと自由になる」のか

「責任を持つと自由になる」というと、日本では直感に反するかもしれない。責任が増えれば、むしろ不自由になると感じる人が多いからだ。しかし、それは責任を「罰」や「負担」として見ているからだろう。責任を「可動域」として捉えると、見え方は逆転する。
責任がある人は、いちいち確認を取る必要がない。自分で判断し、その場で決めて動ける。責任がない人は、どんな小さなことでも確認が必要になる。結果として、動きは遅くなり、他者に依存することになる。
この違いは決定的だ。
つまり、ここでいう自由とは、自分の判断で、前に進める状態のことを指している。

3.「謝る責任」と「説明する責任」

ここで、日本と欧米の違いをもう一段整理しておきたい。日本では、責任はしばしば「結果への対応」として現れる。問題が起きたときに、誰が謝るのか、誰が説明するのかが焦点になる。
一方で、欧米では、責任は「意思決定」と強く結びついている。誰がその判断をしたのか、どの前提で決めたのか、その判断は合理的だったのか、が問われる。
もちろん、欧米でも謝罪は行われるようだ。しかし、その位置づけが異なる。まず説明があり、次に改善があり、その上で必要に応じて謝る。
つまり、日本では「責任=結果を引き受けて謝ること」であり、欧米では「責任=判断を引き受けて説明すること」なのだ。

4.管理OSとマネジメントOSでの「責任」の違い

この違いは、マネジメントの構造とも深く関係している。
管理OSでは、責任は「最終的に誰が負うか」という形で上に集まる。その結果、担当者は判断しないし、上司は細かく関与し、結果、組織全体の動きが遅くなる。
部下がDBICのプログラムを受けたいと考えても、上司が反対するらしい。箸の上げ下げまで管理することが上司の仕事だと誤解している。
一方で、マネジメントOSでは、責任は「どこまでを誰が決めるか」として分解される。課長は成果を定義する責任を持ち、担当者はその成果を実現する責任を持つ。
責任は分散するのではなく、明確に分離される。その結果、組織のあらゆる場所で意思決定が行われ、箸の上げ下げなどのチェックは誰も行わない。

※参考 【横塚裕志コラム】日本企業は「管理OS」で動いている ~DXも変革も進まない理由~

5.これはスキルではなく、人間観の問題である

そして、この違いは単なる仕事のやり方ではない。より本質的には、人をどう捉えているかという問題だ。人を「指示に従う存在」と見るのか、それとも「判断し、責任を持つ主体」と見るのか。
前者であれば、責任は上に集めるしかない。後者であれば、責任は現場に委ねることになる。デンマークの組織では、人は「責任を持つ主体」として扱われる。
だからこそ、責任は「引き受けさせられるもの」ではなく、「最初から自分のものとして扱うもの」になる。

6.責任の定義を変えない限り、生産性は変わらない

会議を減らす、残業を減らす、効率化を進める。こうした取り組みは多くの企業で行われている。しかし、責任の定義が変わらない限り、構造は変わらない。
誰が決めるのかが曖昧なままでは、確認と調整は増え続ける。責任とは、単なる義務ではない。組織の動き方そのものを決める設計要素である。
責任を「誰が謝るか」で定義するのか、それとも「誰が決めるか」で定義するのか。
この違いが、組織のスピードと質を決定的に分けている。

7.高度成長期の成功体験が、今なお残っている

私が担当者のころ、1980年代の高度成長期には、「管理OS」経営が普通だった。成果も定義せずに「頑張ろう」の掛け声だけで、なぜ世界を席巻できたのだろうか。
終身雇用・年功序列の中で、価値観や判断基準が揃っていたうえに、商品・販売チャネルが同じままでよかったから、成果を細かく定義しなくても「暗黙の了解」で動けたのだろう。また、人口が増え、市場が成長していたので、多少の非効率や遅さがあっても、外部環境が吸収してくれたのだろう。

しかし、時代は大きく変わった。人材は流動化し、同質性は崩壊している。市場は低成長で、無駄が許されない。複雑性が増大し、暗黙知では回らない。
だから、昔の「管理OS」経営は破綻しかかっている。この何十年も続いた成功体験を早く捨てて、マネジメントOSに切り替えていかないと、日本企業に明日はないのではないだろうか。デンマークと比較して、危機感がつのる。

他のDBIC活動

他のDBICコラム

他のDBICケーススタディ

一覧へ戻る

一覧へ戻る

一覧へ戻る

このお知らせをシェアする