以前のコラムで、私は「合意で決める組織」と「責任者が決める組織」の違いについて書いた。AI時代に必要なのは、全員の合意を待つ組織ではなく、責任者が決める組織ではないか、と。
しかし、その議論を書きながら、私は一つの根本的な問題に気がついた。実は日本企業では、「決める」責任者そのものがいなくなっているのではないか、という問題だ。今回は、それを考えたい。
日本の会議では、よく次のような言葉が使われる。「当部門としては」「会社としては」「現場としては」「経営としては」。一見すると、組織的で合理的な会話に見える。しかし、よく考えると不思議なことが起きている。
そこには、「私はこう考える」と言う人が存在していないのだ。
私自身、このシーンを何度も見てきた。以前、保険商品をもっとシンプルにすべきではないか、という議論に参加したことがある。商品機能が増え続けた結果、お客様には分かりにくくなり、システムも複雑化し、維持コストも増えていた。ところが会議では、「この機能を必要としているお客様もいるのではないか」「本当にシンプルさを望む人は多いのか」「売上が下がるリスクはないのか」といった意見が次々に出た。どれももっともな意見だった。しかし、あらためて振り返ると、「私はこちらを選ぶべきだと思う」と言う人がいなかったのだ。
この事実には、本質的な問題が潜んでいる。情報を集め、整理し、比較するだけなら、「私」という主語はいらない。しかし、何を選ぶのかを決め、自分の判断をつくるには、「私は」という主語が必要なのだ。
「会社としてどうか」「一般的にはどうか」「他社ではどうか」と考えている限り、それは情報を整理しているのであって、まだ自分で考えているとは言えない。最後に「私は何を選ぶのか」と問うたとき、初めて自分の価値判断が入り、考えるという行為になる。
日本企業では長い間、「個人としてどう考えるか」より、「組織としてどう整合するか」が重視されてきた。その結果、「私はこう考える」という主語を持つ習慣そのものが、組織の中から失われていったのではないだろうか。
結果として、社員は「考える」よりも「正解を探す」ことに慣れてしまったのではないか。とにかく、上司や関係部署が求める「正解」を探すことが習慣になり、本来どうなのかを自分で考え、「私はこう考える」と主張する力を、どこかに置き忘れてしまっているのではないか。
ここで、なぜ「正解を探す」だけではいけないのかを考えてみたい。
企業の仕事には、そもそも一つの正解が存在しない問題が多いからだ。例えば、保険商品をシンプルにするべきか、機能を残すべきか。どちらにも合理性がある。だから、いくら正解を探しても、最後には「何を優先するのか」「何を諦めるのか」を自分たちで決めなければならない。
つまり、経営やマネジメントには、「正解を見つける仕事」だけではなく、「何を正しいとするかを決める仕事」がある。
そして、もう一つ大切なことがある。自分で考え、悩み、選び、決めるというプロセスそのものが、人を成長させるということだ。
判断する力は、判断する経験によってしか鍛えられない。だからこそ、「私はこう考える」という言葉が重要になる。「私はこう考える」という一言には、選択と責任、そして成長につながる思考のプロセスが含まれている。
世界で競争している企業のリーダーたちは、「組織としては」ではなく、「自分は何を信じるか」を語る。もちろん独善でよいという意味ではない。しかし最後は、自らの価値観に基づいて優先順位を決めている。
一方、日本企業では、いまだに「誰が決めたのか」が曖昧なまま意思決定が進むことが少なくない。その結果、変化が遅れ、責任も曖昧になり、挑戦より整合性が優先される。そして何より、不確実性の高い世界市場で、独自の方向性を打ち出しにくくなる。
AI時代の競争は、本質的には「問いの競争」だ。そして、その問いは「私」を主語にして考えることからしか生まれない。
ここに、AI時代ならではの新しい問題が加わってきた。
AIを使えば、分からないことをすぐに聞くことができる。考えを整理することもできる。複数の選択肢を比較することもできる。過去の事例を調べることもできる。これは本来、大きな可能性だ。
しかし、使い方を間違えると、AIは「考えるための道具」ではなく、「正解を探すための道具」になる。「この問題についてどう考えるべきか」「どの案が最も適切か」「一般的にはどうするのが正しいか」「成功事例ではどうしているか」。そうAIに聞けば、それらしい答えがすぐに返ってくる。そこで、その答えを読んで「なるほど」と思い、そのまま自分の判断にしてしまう。
自分の考えを示すより、上司が求める正解を探すことが習慣化している組織では、AIの利用が「自分で考えること」をさらに弱める可能性がある。もし、この状態のままAI利用が推進されていくと、どうなってしまうのか、ぞっとする。
だからこそ、海外では、若年層についてAIの利用をあえて制限する動きも出ている。ニューヨーク市では、2026年度から小学校・中学校に相当する8年生まで、学生向け生成AIの利用を1年間停止する。ノルウェーでも、小学校1〜7年生の生成AI利用を原則認めない方針が取られている。背景にあるのは、AIを使えるようにすることより先に、子ども自身が人間との対話や文章を書くことを通じて、考える力を身につける必要があるという考え方だ。
文章を書くという行為は、単に情報を伝えるためのものではない。自分は何を感じ、何を考え、なぜそう考えるのかを、言葉にしていく行為だ。そこでは、「私は」という主語から逃げることができない。だから文章を書くことは、自分の思考を組み立て、問い直し、他者に伝える力を鍛えることでもある。AIに文章を書かせることが、この思考のプロセスまで代替してしまえば、「考える力」を鍛える機会そのものを失うことになりかねない。
本来なら、「私はこう考える。ただ、この考えに抜けている点はないか」とAIに問いかけることもできる。「私の仮説に反対する意見を出してほしい」と頼むこともできる。この使い方なら、AIは主体性を強める。
しかし、「私はどう考えればいいですか」と最初からAIに委ねてしまえば、AIは自分の代わりに考える存在になる。AIが賢くなればなるほど、「私はこう考える」という一言が、人間に残された重要な仕事になる。
「AIに聞く前に、自分で考えろ」と言っても、それだけでは易きに流れる。AIに聞けば、すぐにそれらしい答えが返ってくるからだ。だから、AIを使っても、最後は本人が判断しなければ仕事が終わらない構造をつくることが必要ではないか。
一人ひとりがAIを使いながらも、自分で問い、自分で選び、「私はこう考える」と言わざるを得ない仕事の構造を設計することがポイントだ。そこまでやらずに、ただAIの利用だけを推進することは、結果として社員から「自分で考え、判断する機会」を奪ってしまうことになる。AIによって仕事を効率化するつもりが、人間の能力を使わない仕事を増やしてしまうことになりかねない。
AI時代のマネジメントで問われているのは、AIをどれだけ使えるかだけではない。AIを使いながらも、人間が「私はこう考える」と言い、自ら問い、自ら選び、自ら決める仕事をどうつくるか。その仕事の構造そのものが、いま問われているのではないだろうか。
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