【横塚裕志コラム】「人的資本経営」が鳴らしている警鐘を謙虚に受け止めよう

「人的資本経営」とは、「持続的に企業価値を上げていくための資本は社員そのものであり、社員の能力が競争力の源泉だ。だから社員を育成する投資状況を株主や投資家に開示していこう」という経営戦略だ。これは、実は人事政策を根本的に変革すべしという警鐘を鳴らしていると理解すべきだと思う。私の捉え方は以下の通り。

ソフトウエアを開発する生産性を例に取る。自動車がその原価の80%がソフトウエアになっているというくらいに、すべての産業でその製品・サービスの中身がソフトウエアになりつつある。従って、ソフトウエアの話は、IT産業にクローズした話ではなく、すべての産業に大きくかかわっている問題だ。
そのソフトウエアの生産性は、実は担当する個人の能力次第で10倍も100倍も違うという性質を持っている。特に、「こんなビジネスを実現してみたい」という夢から始めて、具体的にどのような技術を使ってどのように実現するのかを考案し、新しい技術を試しながら開発していくようなソフトウエアであればあるほど、個人の能力に大きく依存する。生産性どころか、実現の可否とか決定的な品質とかコストが変わってくる。例えば、EVのバッテリーの消費を効果的にマネジメントするソフトウエアを開発する、というケースを想定すればわかりやすい。できる人は限られる。
今までのソフトウエア開発は、金融機関を中心とした大量生産のニーズに応えるために、上流工程・下流工程に分割し、徹底した工業化を進めてきた結果、誰が担当しても生産性も品質も同じというモデルにしてきた。
しかし、今やビジネスは「価値創造」の競争に移り、創造性や最新技術の利用が勝負の分かれ目になってきた。そうなると、ソフトウエアも世界初の仕組みを構想・実現することを目指すことになり、担当する個人の能力で100倍違うという時代になってきている。ソフトウエアを例にとったが、すべての業務で同じことが起きていると認知すべきだろう。

このように、個人の能力でビジネスが大きく左右されることになると、今までの人事政策で常識としてきた「誰でも部署に配属すればほぼ同じ仕事をする」という前提が大きく崩れてくる。業務の内容を調べて、これを実現できる専門性などから人選したり育成したり採用したりしなければビジネスで負けてしまう、という時代になってきたのだ。つまり、ゼネラリストが部署を異動して仕事をするとか、先輩からOJTで教わるとかという今までの人事政策では「価値創造」の時代には通用しない、ということを謙虚に受け止める時代になっているのだ。

このことは、「人的資本経営」を推進している「人材版伊藤レポート2.0」(2022/5)に書かれている。特に、伊藤邦雄教授が書いた前書きは、公式文書では異例だが、本音ベースで率直に厳しい危機感を訴えている。以下に抜粋する。

「第2は、持続的な企業価値創造という文脈で議論すること。今や企業価値の決定因子は有形資産から無形資産に移行した。その無形資産の中核が紛れもなく 人材である。したがって、人材の価値を高めれば,無形資産の価値が高まり、それが企業価値を持続的に押し上げることになる。
第3は、人事・人材変革を起こすのに、資本市場の力を借りようと試みた。なぜなら先進的な投資家は近年、人事・人材戦略に強い関心を寄せている。その証拠に人事部門の責任者(CHRO)と直接対話を始めている機関投資家も少なくない。今まで見られなかった光景である。
叱責されるのを覚悟であえて言えば、これまでの人事・人材をめぐる議論は人事部門の世界に終始し過ぎてきたのではなかったか。「管理思考」の議論の域をどれだけ出ていただろうか。経営変革、人材変革、企業文化変革というもっと広い文脈で議論してきただろうか。
人材は「管理」の対象ではなく、その価値が伸び縮みする「資本」なのである。企業側が適切な機会や環境を提供すれば人材価値は上昇し、放置すれば価値が縮減してしまう。人材の潜在力を見出し、活かし、育成することが、今まさに求められている。
なかでも「経営戦略と人材戦略 が同期しているか」という視点を強調した。一見当たり前のように実践されていると思っていたことが、実はそうではなかった。不都合な現実が次々と浮かび上がってきた。多くの人事部門の方たち、CHROが自己反省と悶絶を始めた。
自社の企業文化が果たして組織や個人の行動変容を促すようなものになっているか。「メンバー」である社員の間の「一体感」を楽観し、企業文化の変革を断行してきただろうか。
中長期的な経営戦略と現有人材との間のギャップを可視化してきただろうか。感覚的には分かっていても、可視化しなければ確かなる手は打てない。そうした ギャップを埋めるために、「リスキル」を推奨した。従来、戦略的なリスキルの場や機会を企業は社員に本気で提供してきただろうか。」

つまりこういうことではないだろうか。
企業の存続のために、新しい価値を創造するビジネスに転換していく必要がある。創造する能力は、個人よって大きく違っているから、目指す新しい価値を創造できる能力を可視化して、その能力を持つ社員を採用するなり育成して配置するようにしないと、新しいビジネスは永遠に実現できない。経営と人材育成をもっとリンクした戦略行動にすべき。
さらに言えば、世界の人材育成の考え方を学ばずに人事部で仕事ができるのか、デジタル時代の経営戦略を学ばずに経営企画部で仕事ができるのか、という問いを突きつけられているのだろう。 経営の責任として、世界で競争できる能力を持った社員を育成しているか、その社員の能力を存分に発揮できるような組織・制度にしているか、が問われているのだ。それが、「人的資本経営」という大変革なのだ。私たちは、この警鐘を謙虚に受け止めなければならないと思う。

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